Quest for Truth
瞬間から瞬間へ
☯ 瞑想状態とは、私たちが無理なく自らの本質にくつろいでいられる瞬間のことです。瞑想は安らぎと至福をもたらし、気づきと明晰性を育ててくれます。手放しで純粋な自分に留まれる時間というのは、現代を生きる私たちにとって極めて貴重な機会です。
ヨーガについての一考察
Yoga invite you no mind. When you don't misled by future or caught in the past, you are here now and let go into yourself.
ヨーガの起源はとても古いです。ヨーガを宗教から科学の領域にもたらしたのはパタンジャリだと言われています。
パタンジャリ曰く経験せよと。それは科学の実験にも似ています。信仰や思い込みでなく、実質的な行為によって梵我一如(ブラフマン)の理解へと至る道です。
しかし、ヨーガは基本的に身体訓練を主軸とした内側へのアプローチであるため、意識進化の階梯のうちのひとつの方法として見るとき、成果が訪れるまでにすこぶる時間がかかる緩慢な取り組みと言わざるを得ません。
ゆえに古来、断食して消化器官に対する負担を軽減し、寿命を延ばし、長期間修業する必要に迫られてきたのでしょう。
そして本来のヨーガは、統合的な自然科学の一部であり、瞑想を通じた深い沈黙へと進むための準備段階として用意された行法ではないかと推察されます。
パタンジャリは『ヨーガ・スートラ』の中で2つの基本原理について語っています。アビアーサとヴァイラーギアです。
アビアーサは「修習」と翻訳されているようですが、これは錯覚による悪習慣の克服を意味します。
ヴァイラーギアは「離欲」のことですが、これは低エネルギー状態からの脱却を意味します。欠乏している時「離欲」は起こりません。逆に、喜々として元気でいっぱいに満ちあふれている時、エネルギーの高さが欲望(エゴ)の低さを易々と超えてしまうことでしょう。
感謝ばかりが溢れてきて堰き止めることも出来ないところまで昇ることができたら、欲望は蒸発し止滅します。
そのとき人は自己の最奥の本質、梵我一如(ブラフマン)の姿を垣間見るのです。
欲望の止滅とは、その基盤であるマインドの消滅を意味します。ヨーガは瞑想を準備し、瞑想はその明晰性から内在するエネルギーに自由を許します。
この生態エネルギーが十全に活動できてはじめて、長い間凍りついていた自らの純粋意識が解放の機縁を迎えるのです。
エクスタシーと至福を超える究極の根本地点(サマーディ)が意識上に発現するには、「ヨーガ」と「瞑想」と「エネルギー」の真の連携が必要です。
このリンクこそが種子であり、"呼吸エナジーサークル"の名の意味するところです。私共の真骨頂でもあります。
洗練された土壌(身体)から、超意識が発芽し、無事に開花に至ることができたなら、それを"悟り"というのです。
瞑想についての一考察
To be yourself -that fill with balance, health, happiness and love- Meditation leaves your pure energy open.
瞑想状態とは、私たちが無理なく自らの本質にくつろいでいられる瞬間のことです。瞑想は安らぎと至福をもたらし、気づきと明晰性を育ててくれます。
手放しで純粋な自分に留まれる時間というのは、現代を生きる私たちにとって極めて貴重な機会です。
瞑想とエネルギーには密接な関係があります。
身体には主に3つのエネルギー・センターがあり、1つ目は腹部、2つ目は胸部、3つ目は額の辺りにそなわっています。
1つ目のハラは、生命エネルギーの湧出するポイントで、強力な生態磁気の発生元であり、身体知の源泉でもあります。
2つ目のハートは、受動的で女性的なセンターであり、存在全体に開いている豊かさと愛のスペースでもあります。
3つ目のサード・アイは、とりわけ霊的な直感を送受信するソナーやアンテナといったところでしょうか。
瞑想の初期段階では、適切な瞑想技法を用いることによって、各エネルギー・センターをゆるやかに刺激していきます。
それに呼応するようにエネルギー回路が目覚めだすと、今まで眠っていた様々なエネルギーが解放され、それ自体の自発性に基づいて活動し始めます。その流れを出来るだけ阻害しないように、可能な限り自然に任せます。
それから、沈黙に入ります。
ただ、暫く静かにしていることで、存在の叡智が自動的に潜在能力を開花させるため、私たちは何も努力する必要はありません。
禅に云う「草はひとりでに生える」です。
この「瞑想」と「瞑想技法」の言葉上の違いについて。細かに言うと、瞑想技法を通して、自らを瞑想状態へ導くことは可能ですが、能動的に「瞑想をする」ことはできません。
なぜなら、「瞑想」という言葉自体、何もしないことを意味しているからです。
従って、「瞑想技法」は人が行為として成しうる最終の試みということになります。それ以降のことは何であれ、起こるに任せることです。
無限のエネルギーが私たちを満たし、慈愛の灯明で道を明らかにしてくれます。
存在と共に生を楽しみ、微笑みと安らぎと感謝が内奥から溢れだしてきたなら、それが法悦(エクスタシー)であり、いわゆる無我の境地の始まりの兆しといえるでしょう。
Image Sources : ☯ KEC JAPAN, Yoga&Meditation, Organic Life